確か1995年、初めてイタリアに行った時に撮ったもの。ミラノ郊外、ガイドブックにも載っていない小さな街に立ち寄り、街の子供たちに謎の東洋人としてかなり驚かれたのを思い出す。日本で例えれば人里離れた山間部に突然黒人が現れたようなもの。すごく驚かれた。「三国同盟組んでた仲じゃん」と言っても子供に分かるはずも無い。というか日本語がそもそも通じない。
そんな街にもさすがカトリックの国、どこの教会にも豪華な彫刻が至る所に施され厳格な凛とした空気を漂わせていた。この彫刻を見てもなんの宗派かさっぱりわからないが、語りかけてくる無言のメッセージに思わずシャッターを切ったもの。
改めて写真(ポジ)を整理していて、日本のこの猶予を許さぬ状況の中、政治家どもの茶番劇を目の当たりにして今の日本に一番欠けているのは『慈悲』ではないかと強く感じる。慈悲は仏教用語だからキリスト教と違うかもしれないが、この像を改めて見て奥深い『慈悲』を強く感じる。
東日本大震災の犠牲者は数万人にのぼる。戦争もそうだが数が多ければ多いほど人々の感覚は麻痺する。一瞬で2万人が死んだと思うのではなく、2万件の殺人事件が起ったと思って向き合うべきだと思う。そして国家、国民はもっと一人の命を敬うべきだと思う。
余計なお節介かもしれないが、なぜ日本の仏教は結集して東日本を救う動きをしないのだろう。全国の坊さんが数千人規模で被災地入りしたというニュースは聞いた事がない。被災地では多くの寺や神社もきっと被害に遭われた事と思う。学生のボランティアに任せてるだけではなく、動くのはお前らだろうと思う。葬式で暴利を得るだけが坊主の仕事ではないと思うのは間違った考えだろうか。
他の宗教もそうだ。自分は宗教イデオロギーが無いので宗教戦争を煽るわけでも宗教団体による政治介入を助長するつもりも全く無いが、国難で政治家のこの体たらく振りを見ていると、活路は人の『心』しかないのではと思う。宗教(という言葉自体が好きではないが)を実践するのであれば、今、この時にするべき事があると思う。キリスト教だってイスラム教だってユダヤ教だっていい、あんたら祈ってるだけじゃなくてなんかしろよと。
『がんばろう日本』とか『絆』とか、決して政治家から出た言葉ではない。政府が出したメッセージがあるんだろうか? とにかく毎日が腹立たしい。今、一番頑張っているのは現地入りしてるボランティアの若い子たちばかりと思えてならない。
うちの父親の実家も震災で被害を被ったが、結局墓を守る(と思い込んでいただけの)寺はなにも動かない。一番腹立たしいのはそんな坊主に親戚一同だれも文句を言っていないこと。
坊さんや他の伝道師に恨みは無いが、ひと言『それでいいの?』
今日はちょっと深酔い気味。
2 Comments
宗教って、要は道徳だと思うんですが、
絶対的にぶれない存在=「神」ってもんがないと、理解が難しいっていうか、
それぞれが違う解釈になっちゃうと思うんですよね。
で、自分の都合いいように解釈しちゃってるのが、政治家や坊主や、そんな人たちなんじゃないかと。。。
そろそろ、きっちりしてほしい。
写真の綺麗さはさすがポジという感じですねぇ
坊さん達はどうも仲間意識がないのか連帯感は感じにくいですねぇ
それに比べてホント最近の若い子の方がしっかりしてると思います
でもそれはそれで将来は明るいなぁって気もします
自分も何かしたい、けどなかなか難しいし
でもせめて頑張ってる人たちを応援はしていきたいです