神戸元町に行った時に異人館にあった仏陀像。ガンダーラの遺跡がなぜ元町にあるのか違和感を覚えたが、実に穏やかな顔で鎮座している。一昨日にほがらかでなきゃとBlogに書いたばかしなのに、昨日のホセ・マヌエル・トーレス・ヤギ殺人者に対する理解できない無期懲役判決。そして今日は北朝鮮によるミサイル発射。不快な事件ばかりだ。
しかし、こういう時こそ冷静に物事を判断しなければいけないと自分を戒める。遺族の思いを考えるととても穏やかではいられないが、「無期懲役」とはいったいなんだろうと考えてみた。「懲役」を辞書で調べると「拘置して所定の作業を科す刑罰」とある。所定の作業?
裁判官の判決理由で「被害者は1人」という部分があった。弁護団も「被害者が1人なので死刑はあり得ない」と言い切った。被害者というのは数で割り出す事なのだろうか。
交通事故でも幼児と大人では賠償額が変わってくる。当然の事だ。子供にはこれから何十年と生きる「権利」があり「国家の大切な資産」である。幼い芽を継とってしまったら、それ相応の代償が求められる。交通事故でさえ100%加害者に過失が無くても運転者は有罪になる。なのに、ホセ・マヌエル・トーレス・ヤギ殺人者の弁護団は無罪を主張した。
「人として道」を持っていたら、将来ある子供を殺めるという事がどれだけ罪深き事か法律に関係なく解るはずだ。法律では判例が優先されるのだろうが、「殺人」を単に「数」で線引きするのは合理的を通り過ぎて、正義の根底を覆させるのではないか。法は被害者をつくらないためにあるのであって、加害者を過剰に保護するためのものではないと思う。
もちろん人が裁く以上、冤罪や誤認もあるかもしれない。殺人を犯した人間はすべて死刑にしろとはいわない。しかし、幼児に対する、それも性犯罪に対しては単に「殺人罪」という判例の中に収めてしまうのには理解できない。快楽殺人は普通の殺人(言い方が変だけど)と一緒にすべきではない。
刑務所での「所定の作業」で果たして罪を償う事ができるのだろうか。普通の人でさえ過労死する人がいるほど日夜問わず一生懸命頑張って働いているというのに、「所定の作業」で食事も寝る所も保障され、ある意味規則正しい生活をおくれて、普通の人より楽な仕事をして生きて行く事が出来る。この現実はいったいなんなんだろう。
ペルー人だからキリスト教徒か? キリスト教では人を殺めた時にどうしろと教えているのか分からないが、懲役の期間での懺悔でいったいなにが変わるのだろう。殺人者は改心できたとしても被害者、遺族、そして我々の心に深く残った心の十字架は誰が解放してくれるのだろう。
後を経たない幼児殺害事件を抑止する方法は無いのだろうか・・・・
2 Comments
人が人を裁くのっていうのは難しいよね。
ただ明らかに道徳観の欠如に対しては司法は厳しい姿勢をとるべきだと思う。
そうしなければ社会というコミュニティが保てなくなるから。
むーちゃんも一生懸命勉強して、自分なりの回答を導き出してね。
ホント、悩ましい・・・。
判決の言いたいこともわかるんですけどね。
でも結局、そういう社会になってしまっている現状をなんとかしないと
どうにもならないのかも知れない・・・なんて思います。
教育の見直し、親や先生の見直し・・・全部見直した方がいいと思う。